自分の「好き」に向き合うには社会不適合者の偏屈な嫌われ者として生きる覚悟が必要かもしれない

おはようございます。
伊上透です。

この記事を書いてから「自分はどんな人が好きなんだろう。というか、どんなことが好きなんだろう」と考えるようになりました。

そして昨日ふとこんなことを思いました。



まず自分は世の中をそんなに好きじゃない。世界はそんなにキラキラしていない。色んな人の「楽しい」が僕にとっては楽しくない。
「世界はつまらない」と感じることが悪いことな気がして、無理矢理好きになろうとしてるけど、その行動のせいで心の底ではどんどん世界が嫌いになっていってる。

僕は結構偏屈な人間です。
本当に本音を語りだせば「文句ばっかり言って結局この人は何が好きなの?」と多くの人に嫌われてしまうかと思います。
文句や愚痴は良くないとされてるし、それによって自分とは違う種類の負のオーラを持った人を呼び寄せるのも嫌なので、あまり言わないようにしてます。
でも本当は「それ楽しいの?」「そんなん大切?」「つまんねーな」みたいなことが心の内では渦巻いてるわけです。
それを自分でも見て見ぬふりすることにより自分のバランスは完全に崩れている。

僕が楽しいと感じるのは「普通そんなことしなくない?」ということをする時です。

これは完全にやってはダメな例なんだけど、某会社の倉庫でのバイト中の昼休みにそのまま帰宅してバックれたことがあります。「このまま帰っちゃうって面白そうじゃない??」と思ってしまったからです。若い頃の自分はその心の声に素直だった。警備の人に「お疲れ様でーす」なんて言いながら自転車を取り出しそのまま帰っていく瞬間、倉庫の敷地を出た時の開放感が凄く気持ち良かった記憶があります。
働き口を失って凄く後悔することにはなるのだけど。

これは人に迷惑をかけるから本当にやっちゃダメなんだけど、自分の心の奥にはこういう社会不適合な欲望が渦巻いてるわけです。
というかみんなそうなのかもしれないですね。
「まともな人」「大人な人」になるために素直な自分を削ぎ落としていってるのかもしれないです。
僕も心が死んでいる時ほど「まとも」だと言われます。
昨日Twitterのフォロワーさんとのリプでも言ったけど「まとも」っていうのは人に怒られない嫌われない状態のことかもしれません。

僕は欲望だけでなく罪悪感とかそんなものもありますから、こんなこと繰り返したら潰れてしまいます。
でもその社会不適合な欲も時には満たしてあげないといけない。
常識や倫理に反するってだけで損するのが自分だけって場合ならやっちゃってもいいじゃないですか。むしろやらないとダメ。
「理性こそが人間を人間たらしめている。欲に負けるなんて動物と同じだ」なんて意見もありますが、理性なんてどうせ捨てられないんだから僕は動物になりたい。
高尚になんて生きたくない。

ちょっと話が散らかってきました。
最後にまとめます。

僕は不幸なことに世の中の楽しいとされていることを楽しめない人間です。
ライブの何が楽しいかわからないし、ご飯は一人で食べるのが一番美味しいし、馴れ馴れしく話しかけてくる飲み屋さんなんてもう二度と行かないし、そもそもお酒の良さも理解出来ない。
偏屈なんです。しかも前述したとおり社会不適合者でもあります。そもそも34歳フリーターで就職する気なんて一切ないんですから完全に社会に馴染めていない。
そんな偏屈な人間が自分を解放して生きたらどうなりますか。
絶対に嫌われます。

でもそれでも自分を出来るだけ開放していかないと世界はどんどん色褪せていきます。
自分の「好き」に向き合うには社会不適合者の偏屈な嫌われ者として生きる覚悟が必要だという結論に今のところは至っています。
キラキラな人間になりたかったけどそれは出来ないみたいです。というかそもそも僕はキラキラを好きじゃない。でもキラキラは褒められるから羨ましくて。
僕が愛するのはドロドロです。
ドロドロとした社会模範なんてとりあえず無視した欲望の美を愛しています。